みなさん、デヴィ夫人がブログをしているのをご存知ですか??
私は、知らなかったです。。
まさかデヴィ夫人がブログやってるなんて思わないですよ!!
ブログやっているって知ったのは、つい最近です!
今回はその中の皇室についてお話です。
デヴィ夫人だからこそ言える皇室
ブログの内容は、皇室愛子様についてデヴィ夫人から見た皇室の子育ての在り方です。
皇室だからといって甘やかすことでなく、皇室だからこそきっちりとしていかなければいけない!!
というデヴィ夫人なりの叱咤激励かもしれません。
デヴィ・スカルノという生き方
デヴィ・スカルノプロフィール
本名・インドネシア名: ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ
旧名・日本名:根本 七保子
別名義 :デヴィ夫人
生年月日:1940年2月6日(78歳)
出生地:東京府東京市麻布区霞町(現:東京都港区西麻布)
国籍:インドネシア
職業:タレント
配偶者 :スカルノ
NPO法人アースエイドソサエティ総裁
株式会社デヴィーナ・ソサエティ代表取締役
インドネシアのスカルノ元大統領第3夫人。
スカルノ大統領との間に生まれた一人娘のカリナは、2005年(平成17年)11月26日にオランダで米系大手金融機関シティバンクの欧州・中近東・アフリカ地区CEOフレデリック・シーガスと挙式している。
生い立ち
東京府東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布)で父・兵七郎と母・政子と弟・八曾男の4人家族で過ごす。
家庭は裕福ではなく多額の借金をしていて、太平洋戦争中は、母・弟の3人で福島県に疎開していた経歴を持つ。
1955年(昭和30年)当時15歳で新東宝制作の映画『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(白黒映画)にエキストラ出演果たす。
その時から、その美貌は噂になる程だったとか!
中学卒業後は、東京都立三田高等学校定時制部に進学すると同時に、150倍の難関を突破して千代田生命保険(現・ジブラルタ生命保険)に入社したが、昼休みや休日にも貧しい家計を維持するため、喫茶店などでのアルバイトを掛け持ちし続ける日々を送った。
1956年に父が亡くなった事に伴い高校を中退した後、赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働き始める。
1959年(昭和34年)当時19歳、インドネシアへの開発援助に伴い「東日貿易の秘書」という名目で、スカルノ大統領のもとで仕事をすることに。
スカルノ大統領夫人
独立後間もなく東西冷戦下にあったインドネシアにおいて、当時スカルノ大統領は日本外交や資金援助の取り付け等を非常に重要視していた。
インドネシアに渡って数年は愛人の1人であったが、1962年(昭和37年)にスカルノと正式に結婚、4人の夫人のうちの第3夫人になる。
日本では、マスコミの執拗な取材により体調を崩していた母が亡くなった。
母の死に目に逢えなかった実弟の八曾男も後を追って亡くなったのを聞いたデヴィは「何時までも心を離れない悲しいトラウマになっている」と以前吐露してます。
今日の深掘りポイント
今回はデヴィ夫人のブログにまつわる事柄を紹介しました。
デヴィ夫人は一国の大統領夫人という立場になったからこそ、皇室の在り方に敏感に反応したのでしょうね。
私たち、国民はなんとも言い難いことなのでやはり同じような立場の方からの見え方は、私たちからしたらありがたいです。
今後も、デヴィ夫人だからこその見え方を紹介してもらうと面白いかもしれませんね!!